【メモ】金子きみと竹内てるよ、母と子と長い人生
2012-05-23


生まれて何も知らぬ 吾が子の頬に
 母よ 絶望の涙を落とすな
 その頬は赤く小さく
 今はただ一つの巴旦杏(はたんきょう)にすぎなくとも
 いつ 人類のための戦いに 
 燃えて輝かないということがあろう…

 2002年9月、IBBY(国際児童図書評議会)創立50周年の式典で、美智子皇后が英語でスピーチしました。
 英文のほうは見つかりませんでしたが、日本語の原稿が残っています([URL])。なかで引用されている上記の詩は、竹内てるよの「頬」の一部です。


 昭和初期、東京に「渓文社」という小さな出版社がありました。
 アナーキズム寄りの出版社だと言われ、多くの詩集を発行しましたが、前身は1929年、竹内てるよとその共同生活者の神谷暢により創設された啓文社です。

 竹内てるよは、銀行員であった父と18歳の芸者の母の間に札幌で生を受け、赤ん坊のときに母から引き離され、祖父母のもとで育てられました。子供を奪われた母は、悲しんで自殺したそうです。
 てるよは十代の頃から働きに出ましたが、17歳で結核にかかり、以降長年に渡り、病魔と闘うことになります。
 20歳で父親の借金相手と結婚、出産し、24歳で腰椎カリエスとなり、ギプスをかけて病床に伏し、ついに離婚することとなりました。

 子供を夫の元に残すことに忍びず、一旦心中を決意したそうです。
 眠っている子供の首に手をかけるが、子供が目覚め、母の右手に揺れる赤いひもを見て、おもしろがって笑いました。
 その笑みを見て、てるよは心中を思いとどまりました。冒頭の「頬」は、そのときの心情を詠んだものです。
 「生まれて何もしらぬ 吾が子の頬に / 母よ 絶望の涙を落とすな」は、実に壮絶なものでした。

 てるよは子供を手放し、闘病生活を続ける傍ら、詩の創作を行い、1928年から「詩神」、「銅鑼」に作品を掲載しました。
 1929年、草野心平等が「竹内てるよを死なせぬ会」を発足させたそうですが、当時のてるよは結核の病状が悪く、ほとんど毎日が喀血、血便、貧血によって、人事不省状態の連続だったそうです。

 宮本百合子の「文学の進路」に、「竹内てるよさんは、カリエスといふ病が不治であるため、徹也といふ愛児をおいて家を去り、貧困の底をくぐって、今は、療養の伴侶であり、友である神谷暢氏と夫婦でない、結婚生活でない共同生活を十三年営んで居られる。」という記述があります。


 1929年、啓文社が創設されました。
 竹内てるよの詩集を刊行するのが重要な目的でしたが、一方でアナキズム的思想の啓蒙、詩集、文集、童話、パフレット、小新聞等の発行と印刷所の経営をも目指しました。
 この啓文社はのちに「渓文社」に改められましたが、渓文社を長年支えたのは、西山勇太郎です。

 西山は小学校を卒業するとすぐ淀橋区の鉄工所で見習い工となり、住み込みのまま、戦前から戦後へかけての三十数年間を淀橋で過ごしました。
 昼間は鉄工作業、夜はお金にならぬ、ガリ版印刷をして、傍らに「渓文社」や「無風帯社」を経営しました。草野心平、萩原恭次郎、中浜哲らの詩集が、渓文社から出版されていました。

 庄治きみ、すなわちのちの金子きみが、こんな歌を残っています。
 「辻潤と いふ人現れる 西山君と一緒になるといいね と唐突におつしやる。」
 この「西山君」が、西山勇太郎です。

 辻潤は西山勇太郎の師ともいうべき存在です。辻潤が放浪していたころ、幾度か西山の部屋を訪ねて滞在もしたし、西山も辻を追いまわす特高刑事のことなど意に介さずに泊めたそうです。


 金子きみは歌人であり、のちに小説家に転身しました。

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