竹内てるよと同じく北海道の生まれで、上芭露小学校を卒業し、農業に従事しながら、自由律の新短歌を作っていました。冬の農閑期は東京の姉夫婦のもとに滞在し、その東京で、歌の仲間と知り合いました。
西山勇太郎の尽力により、17歳で歌集「草」を渓文社から刊行されました。
きみは西山を介して、辻潤や、その息子の辻まこと(
[URL])とも出会います。
きみの最初の詩集「草」、装丁は辻まことによるものです。(
[URL])
結局、きみは西山とは結ばれず、義兄の紹介で金子智一(
[URL])と結婚し、金子きみとなりました。
「宣戦 直ちに夫に報道班員の徴用令 選ばれたと言う眉を見つめる」
「銃後の悲しみとしてはいけない悲しみを 乳児の目が吸いとってくれる」
と金子きみの作品にある通り、子供が生まれたあと、太平洋戦争が急を告げました。
戦争末期の東京大空襲の直後、東京を脱出する時の様子が、金子きみの手記で書かれていますが、大混雑の上野駅構内で、4歳の息子・雅昭が一度行方不明になっていました。
その時、まずある家族が迷子の雅昭君をまず保護しましたが、彼らの乗車の順番が回ってきたので、その辺にいた十歳ほどの浮浪児に預けて行ったようです。
その浮浪児自身は大空襲で家が焼け、家族を失って駅の地下道で寝起きしている戦災孤児ですが、預かった雅昭君を親のもとに届けるために、群衆の中を探して連れて歩き、ようやく母親の金子きみと出会ったのであります。
こうして無事に親子再会できた金子きみは、財布から乗車券だけを取り出して、その浮浪児に渡しました。もしその浮浪児が居なかったら、親子再会どころか、子供が生存できていたかどうかも分からないでしょう。
そういう出来事があって、金子きみは愛息と離れ離れにならずに済みましたが、竹内てるよのほうは、幼いときから離れ離れになっていたわが子と、戦後に突然出会いました。
まったく消息不明だった息子は、実はヤクザになって、刑務所にいました。
出所した子と暮らしはじめたものの、四ヶ月で息子は出奔し、四年後、またも刑務所で会うことになりました。
約一年後、ようやく親子水入らずの生活を送れるようになりましたが、たった二ヶ月、息子は喉頭癌(舌癌とも)で入院し、一ヶ月後に死去しました。
てるよ自身も腎臓結核が再発し、何年間もの長い入院生活を余儀なくされました。
むごい人生だったかも知れませんが、彼女の詩は、しかし決して暗いものばかりではありません。「家の光」の読者投稿欄の「詩」の選者も、長年務めました。
竹内てるよが初めて結核を患った17歳の頃、二年も生きられまいと言われたそうです。しかし、病気と貧困に苦しめられ、つらい出来事の多かった人生を送りながらも、2001年2月に96歳で亡くなるまで、達観して、天寿を全うことができました。
金子きみのほうも、やはり長生きしていて、2009年6月に94歳で亡くなりました。
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