ロスチャイルド家とノミのコレクション(1)
2010-08-13


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 18、19世紀のヨーロッパには2つの強力な王家がある、と書いたのは作家の山野浩一です。
 ハプスブルク家はもう古い。挙げられたのは「海賊を繰り出して世界の富を略奪してきたイギリス王家」と、もうひとつ「近代化に向かう世界の国家事業に金を貸して富を蓄積してきたロスチャイルド家」です。

 ロストチャイルド家の家紋やロストチャイルド父子銀行のマークには、どちらも五本の矢があります。パリ分家のギー・ド・ロスチャイルドの自叙伝によれば、初代のマイヤー・アムシェルが臨終のとき、5人の子供にスキタイの王の話をしたそうです。毛利元就の三本の矢の話とそっくりで、「お前たちは結束でいる限り強力であろう。」
 この話には幾分潤色がされているようです。1812年9月のマイヤー・アムシェルの死はかなり突然で、フラクフルトの父の枕元にいたのは、長男のアムシェルと四男のカールだけでした。
 とはいえ、ともかくロスチャイルド家の五兄弟はウイーン、ロンドン、フランクフルト、パリ、ナポリに散りながらも、国家の枠を超えて互いに協力し合い、巨大な資産を持つロスチャイルド王家を築きました。

 古川柳に、「売家と唐様で書く三代目」というのがあります。
 「唐様」というは墨書で書く中国風の立派な書体です。一代目が苦労して業を興し、二代目がそれを拡大して、三代目、四代目が遊びほうけて資産を食いつぶす(ついに家も売り出すが、書く字だけはその教養があるところを示した)、という法則は東西どこでも同じらしいです。
 ロスチャイルド家の違うところは、城のような建物を建てて、毎週のように大パーティーを催しても、なかなかビクとしない財力があったことです。

 ロンドン分家の創業者で二代目のネイサン(1777〜1836)は仕事の鬼でしたが、三代目の四兄弟はみんなオックスフォード大学で学んで、いい意味でも悪い意味でもイギリス紳士として育ちました。
 次男のアントニー(1810〜1876)は優れた馬術家となり、三男のナサニエル(1812〜1870)はフランスでのワイン醸造に精を出しました。末っ子のマイヤー・アムシェル(1818〜1874)は名牝ハナー(Hannah)やダービー馬ファヴォニウス(Favonius)のオーナー、ユダヤ人としてはじめてジョッキークラブのメンバーになった人です。
 長男のライオネル卿も後に競馬に参加し、ミスター・アクトンという仮名を使って、サーベヴィス(Sir Bevys)によってダービーを勝ちました。
 ライオネル卿の末っ子レオポルド(1845〜1917)は、叔父マイヤー・アムシェルの後継者として競馬界で大活躍し、ダービー馬セントアマント(St. Amant)や名馬セントフラスキン(St. Frusquin)のオーナーとなりました。

 ハナー([URL])は父King Tom、母Mentmoreを持ち、1000ギニー、オークス、そして牝馬ながらセント・レジャーも勝った変則三冠馬です。同じ年にファヴォニウス(Favonius)がダービーも勝っていたので、1871年の英国クラシックはマイヤー・アムシェルの年だと称されていました。
 実はハナーは、マイヤー・アムシェルの娘の名前でもあります。
 ロスチャイルド家の家訓では、男はユダヤ教徒の女性としか結婚できないですが、女の子は家業に参加できない代わりに、ユダヤ人以外との結婚など、特に縛りは厳しくないです。
 馬のハナーは引退後にすぐ亡くなり、その血を伝えることが出来なかったのですが、マイヤー・アムシェルの娘ハナー(1851〜1890)は、後にローズベリー卿(the 5th Earl of Rosebery)に嫁いで、結果的にロスチャイルド家の閨閥を広げました。


 ロスチャイルド家のメンバーは一旦なにかの収集癖を持ったら、その財力とあいまって、あっという間に第一級のコレクションになってしまいます。
 例えば、レオポルドの長男のライオネル・ネイサン(1882〜1942)の場合は園芸です。

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