2011-08-12
独身時代に住んでいた会社の寮の近くに、かつて紀元二千六百年記念全国馬耕大会が行われたそうです。
馬耕というのは、馬を使って田畑をすき、耕すことであり、田をいかにきれいに、速くすくかを競うのが馬耕競技会です。競技会は、大正の終わりから戦時中まで盛んに行なわれていて、銃後の守り手として奨励されたためか、女性の参加者も多かったようです。
紀元二千六百年だと言っても、もちろん西暦ではなく、いわゆる皇紀です。1940年(昭和15年)は、神武天皇即位から2600年目に当たるとされ、多種多様な記念事業が実施されました。
全国馬耕大会もそのひとつです。僕がよく散歩で通る場所は、その頃は耕地であり、当日は楽隊の演奏のなか、酒井忠正伯爵、石黒忠篤農相などと一緒に、あの「ラストエンペラー」満州国皇帝溥儀も来場、臨席されていたそうです。
紀元二千六百年の記念行事は日本全国でいろいろ行われました。美術展覧会、武道の天覧試合、観兵式、観艦式など、物資が厳しい情勢のなかでは精一杯、祝賀ムードを盛り上げたそうです。
なかでも個人的に興味深いのは、日本一の乾燥地とされる長野県蓼科高原で作った「紀元二千六百年文化柱」です。
1993年4月1日の「新聞之新聞」によれば、新聞之新聞社の創始者で当時の社長である式正次が、ハーバード大学百年祭での「文書百年保存後開封と封緘」の模様からヒントを得て、当時の文化物を百年後の子孫に送ろうと建設を思い立ったものです。
よく学校では卒業のときなどにやる「タイムカプセル」の、いくらか規模の大きいものだと思ってよいかも知れません。白いドーム状の建物のなかは8畳ばかりの一室、当時の新聞、代表的な書籍、著名人の写真、絵画、ポスター、日用品などが収納されているようです。
エイプリルフール・デーの新聞ですが、ウソではないようです。文化柱はいまも存在しています。
戦時中は白い外観が目立つからと泥を塗られ、戦後は皇国史観の遺物だとGHQに告発され、そして蓼科が観光客で賑わうようになると、今度は心ないイタズラに悩まされたようです。
それでも激動の時代を経て、なんとか無事に残っています。2040年の開扉は、楽しみです。
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