玉兎の春
2011-02-19


石川雅望がお上のお咎めを受けて江戸を追われた後、宿屋飯盛の代わりに「伯楽連」をまめたのは、同じく四方赤良(大田南畝)門下で狂歌を学んだ、1歳年下の岸識之です。
 通称は岸宇右衛門、狂歌名は頭光と言います。聖人から発せられる光背の頭光(ずこう)のほうではなく、読み方は「つぶらのひかる」、若ハゲであったゆえです。

 頭光は軽快で大らかな詠み口を身上とし、「花の山色紙短冊酒さかな入相のかねにしめて何程」、「ほとゝぎす自由自在に聞く里は酒屋へ三里豆腐屋へ二里」、「月みても更に話句なかりけり世界の人の秋と思へば」、などがその作品です。
 日本橋亀井町に生まれ、長じて亀井町の町役人となり、生粋の江戸っ子、日本橋っ子でした。彼にはこんな歌もありました:
 「我ら団十郎ひいきにて生国は花のお江戸のまん中」


 団十郎とは、むろん歌舞伎の市川団十郎を指し、団十郎は江戸の昔から筆頭役者でした。初代は元禄年間の人で、頭光の時代はと言えば、名人の誉れ高い五代目が活躍していました。

 五代目の団十郎は荒事、和事とも堪能で、舞踊にも秀で、敵役、実悪、女形など、ひとりで何役も演じて見せたと言います。
 また、文才もあって、四方赤良ら文化人との交流を持ち、自らも「花道のつらね」の名で狂歌を詠みました。頭光がひいきするのもむべなるかなです。
 寛政八年に一時引退し、成田屋七左衛門と名を改め、向島に草屋を建て、好きな俳諧、狂歌を作り、質実な隠居生活を送っていました。
 花道のつらねが詠んだ歌で有名なのは、
 「たのしみは春の桜に秋の月 夫婦仲良く三度くふめし」

 華やかな舞台で見栄を切る姿は影もなく、毎日三度の飯など、平凡な楽しみを歌っています。それでいて実に決まっていて、気に入っています。
 関係ないですが、いまから十数年前、この歌を一文字だけ変えて、敬愛する友人夫婦に送りました。
 「たのしみは春の桜に秋の菊 夫婦仲良く三度くふめし」
 友人夫婦はともに競馬キチで、桜花賞と菊花賞は欠かせないだろうと思ったためです。名優には失礼だったかも知れません。

 花道のつらねの歌を検索して、もうひとつ見つかりました:
 「をそろしき寅の年の尾ふみこえて光のどけき玉の卯の春」

 恐ろしかったかどうかは別として、虎年の尾をなんとか踏み越えて、兎年を迎えているのは、ちょうどいまと同じです。
 僕のつぶらのひかり、いや、間違いました。のどかに射る春の光が、じきに訪れて来ることを、いまかと心待ちしています。
[詩・歌]

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