府中の豆 〜お代わりをお持ちしました
2011-02-14


曹植に話を戻しますが、「洛神賦」のような傑作を残し、その詩文が高く称賛されているものの、本人は「吾雖コ薄,位為蕃侯,猶幾戮力上國,流惠下民,建永世之業,留金石之功。」と語ったように、文学者としての高名よりも、政事での活躍を望んでいたようです。
 ある意味では兄の曹丕と好対照です。文学的な名声は弟に及ばないですが、曹丕は「典論」論文で文学の重要性を謳い、後世に大きな影響を与えました。

 「蓋文章,經國之大業,不朽之盛事。年壽有時而盡,榮樂止乎其身,二者必至之常期,未若文章之無窮。」

 台湾で高校を通っていた頃、この文章が国語の教科書に載っていたが、経国の大業、不朽の盛事とは、なかなか気合いが入っているな、と感心ました。

 日本においては、時代は下りますが、かの「古今和歌集」の仮名序が、ようやく匹敵できるのではないでしょうか?

 「力をも入れずして天地を動かし
  目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ
  男女のなかをもやはらげ
  猛きもののふの心をもなぐさむるは歌なり」

 裂ぱくの気合が感じられ、この紀貫之の序文も好きです。
 もっともこう大上段に構えられ、いつも「文以載道」で迫られると、息苦しくなる書き手もいるはずです。戯文、洒落、息抜き、エンターテイメントとしての文学もいろいろありますから。

 「歌よみは下手こそよけれ天地の動き出してたまるものかは」

 江戸時代、宿屋飯盛という人が詠った狂歌です。天地が一々動かされてはたまらないから、歌詠みは下手で結構、古今の序文をふまえた上で斜めに構えた、捧腹絶倒に値する傑作だと思いませんか。


 この宿屋飯盛はただ者ではありません。
 通称を石川五郎兵衛、雅号を石川雅望と言い、狂歌師にして国学者であり、そして小伝馬町の「糠屋(こぬかや)」という旅籠のあるじです。
 国学では古語辞典の「雅言集覧」や源氏物語の研究書「源註余滴」でいまも知られていますが、狂歌は大田南畝に学び、好きが高じて仲間を集め、「伯楽連」なる狂歌の連を作りました。「伯楽」の名は、連中に小伝馬町や馬喰町の人が多かったからでしょうが、近くに北町奉行があり、訴訟で上京する人のための公事宿が多かったようです。糠屋もそのひとつ、狂歌名の「宿屋飯盛」はその本業に因んだものです。
 「初咲きの梅は秤か市人の二りん三りんあらそふて見る」、「世わたりの道にふたつの追分や、たからの山に借銭のやま。」などが、宿屋飯盛が詠んだ歌です。

 悪質な公事師の尻押しをしたという疑いで、石川雅望は江戸払いとなりました。
 時は寛政三年、江戸を追われた石川雅望は宿屋を廃業して、府中で住まいを構えました。
 府中は東京都の地理的中心にあり、いま東京競馬場がある町で、僕もまめに通っていました。「伯楽連」とは「馬」でつながった、と言いたくもなりますが、江戸の町民の交通手段は足、大江戸と言えども西は新宿あたりまで、府中は日本橋から二日脚、現代人の感覚ではわからない距離にあり、辺鄙な地でした。

 ある日、大田南畝が訪ねてきました。弟子の境遇を見て、泣きながら歌を詠みました。

 「君もまめ我らもまめはまめながら、ふちうにありて泣く草鞋くひ」

 ふちうは「府中」であって、「釜中」です。健康の意のまめと足のまめを表現しながら、曹植の七歩の詩をふまえ、「釜中」に「府中」を引っかけたのであります。
 出久根達郎のエッセイで書かれていますが、まめは真面目の意味もあり、石川の無実も言外訴えていたかも知れません。
[詩・歌]

コメント(全8件)
コメントをする


記事を書く
powered by ASAHIネット