蕃社の惨劇
2010-02-15


蕃社の娘の純情は  赤い瑪瑙の首飾り
 胸に燃え立つ 恋の歌  はずむ踊りの足拍子
 ......

 台湾のホームページ「経典演歌」で、人気歌手の江恵が歌う「蕃社の娘」を聞くことができます。(中国語歌詞の「十八的姑娘一〓花」も)
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 この「蕃社」というのは、戦前の台湾原住民(高山族、山地同胞)に対する日本側の呼び方です。
 「蕃社の娘」は元々昭和14年、コロンビアレコードから発売されたレコードであって、歌ったのはサワ・サツカ(佐塚佐和子)さんです。


 「蕃社」にあるのは、決して平和な生活ばかりではありませんでした。
 日本の統治者たちがもたらした文化支配に対して、時代の流れに乗ろうとする者、徹底的に抵抗しようと企む者、支配民族との調和を計ろうとしながらも体のなかに流れる血が頑と受け入れられない部分を抱える者、様々の思惑と不条理が、結果として幾多の惨劇を生んでいたようです。

 明治44年の白狗社蕃蜂起なども知られていますが、なんと言っても有名なのは、霧社蕃十一社の総頭目モーナ・ルーダオ(Mona Rudao、莫那魯道)が、婦女子を含めて約千二百人を率い、運動会当日に反乱を起こした、あの昭和5年の霧社事件です。
 日本人みな殺しの号令下、事件の当日には、日本人134人、台湾人2人が犠牲となりました。その後の討伐の際、さらに霧社蕃側は戦死者162人、自殺者450人、行方不明者111人を出し、日本側の軍人・警官も29人亡くなったそうです。

 今日、台湾南投県霧社の地にはモーナ・ルーダオの記念碑が作られ、近年にできた新しい台湾の20元硬貨にもモーナの頭像が描かれています。台湾当局はモーナを外来の高圧政権に対して勇敢に戦った原住民の象徴、そして抗日の英雄として捉えました。


 事実は、決して単純な話ではありません。
 最近、「大酋長モーナの戦い」(芸文堂)を読んで、あの惨劇について、改めて思うことが多いです。

 モーナ・ルーダオの妹は、日本人警察官との間にアミンという子供がいて、事件後平地に逃れ、韜晦して台湾人の養子となりましたが、作者の於堂忠彦さんは小学生時代にそのアミンと遊んで、直接事件の詳細を聞いていました。また、事件の日本側の中心人物のひとり、当時巡査であった小島源治さんとも直接話ができて貴重な情報を得たそうです。いままで日本側が建前の記録と推定で纏められた資料、台湾側で憶測と政策上の意図で作り上げた話、そのどちらにもない、信憑性が高い記述になっているように思えます。

 小島巡査はモーナから慕われたそうですが、もうひとりの日本側の中心人物、真面目な佐塚主任は、嫌な「上司」の象徴としてモーナたちの復讐の標的とされ、横死してしまいました。
 犠牲になった佐塚主任は現地原住民出身の奥さんとの間に男女の子供がいて、台中市内の名門校に通って、事件当時は寮にいたために難を逃れました。
 その長女というのが、のちに歌手となって「蕃社の娘」を歌った、あの佐塚佐和子さんでした。

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