2010-01-26
呉楽天の語りよりはるかに古く、廖添丁の話を最初に劇場にあげたのは日本人だったそうです。
大正元年(1912年)、台北の劇場「朝日座」で廖添丁を主人公に据えた演劇が上演されました。そして、大正三年には台湾伝統の「歌仔劇」も作られました。新聞で「稀代の凶賊 廖添丁の最後」の題で報じられたその死から数年も経たないうち、廖添丁は凶徒から義賊に成り変りました。
台湾に程近い沖縄には、運玉義留(んたまぎるー)という義賊の伝説がすでにありました。関係を示す資料を見つけられていないので、これは僕のただの憶測にすぎないですが、あるいは廖添丁の劇も、最初はその台湾版として考え出されていたかも知れません。
運玉義留の話がいつできたか正確にはわかっていないですが、少なくとも18世紀中には口頭の語りや唄があったと言われています。「沖縄演劇の魅力」(沖縄タイムス社)によると、明治20年頃には芝居の筋書きができて、先般の大戦が始まるまではずっと沖縄の人々を熱狂させるテーマでした。
伝奇中の廖添丁には紅亀仔という相棒がいるように、運玉義留には油喰坊主(あんだくぇーぼーじゃー)」という知恵袋がコンビを組んでいます。大名やお金持ちを狙って盗みを働いて、金品を貧しい者たちに分け与える、まさにロビン・フッドばりの義賊だったわけです。
取りたる銭金 欲しこーねらん (盗んだ金が欲しいわけではない)
今ぬ浮き世や 許さらん (今のこの世が許せない)
盗ど盗ど 呼ばれってん (ドロボー呼ばわりされるが)
意地え捨てんな 油喰え (意地だけは捨てるな、油喰え)
う侍れや 玉黄金 (お侍は玉黄金)
百姓やれー ちりあくた (百姓ときちゃゴミ同然)
じんぶん勝負 負きらんさ (知恵比べでは負けない)
御供すんど イエー兄い (お供するよ、ね兄貴)
<< 「アウトローの世界史」より >>
運玉義留にはモデルが見つかっていません。当時の沖縄は「ヤマトンチュウ」(本土の人々)から厳しい経済的な収奪を受けていたので、権力に立ち向かい、貧しい人々の鬱憤をはらしてくれるヒーロー像として考え出されていたかと思われます。
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