【読後感】「それでも江戸は鎖国だったのか 〜オランダ宿 日本橋長崎屋」(片桐一男、吉川弘文館)
2009-03-30


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 書き方でもうちょっと整理して頂くとよりわかやすくなると思いますが、この本に集められた資料、書かれたネタ、いずれも興味深いものです。
 以下、感想というよりは簡単なメモです。


 禁教・鎖国の江戸時代にあっても、長崎では毎年唐船と蘭船を迎えて、定期的な海外交流が行われていました。
 ヨーロッパ勢のなかで対日貿易を独占したオランダは、その恩恵の代わりに、オランダ連合東インド会社の日本支店であるオランダ商館のカピタン(商館長)は、定期的な「江戸参府」が義務づけられていました。

 カピタンが随員とともに江戸で宿泊・滞在する定宿が、四百年以上に渡って、日本橋本石町三丁目の「長崎屋」に決まっていました(但し、1859年に長崎屋は鉄砲洲船松町二丁目へ移転)。下関、京都などにも定宿がありましたが、滞在期間が長く、規模も一番大きいなのは江戸の長崎屋です。

 宿泊人としては、オランダ・カピタンと随員(医師、コック...)、随行の日本人、検史と通詞など。荷物としては、将軍家への献上物、幕府高官への進物、日用品、将軍や高官からの下され物などが、長崎屋の蔵に嵩みに嵩んで大事に保管されていました。

 長崎屋は、元々本業は唐人参をはじめ、輸入薬種に代表される輸入品を取り扱う商店だったようです。輸入に関わった実績から、江戸における阿蘭陀宿の役割も果たしてきましたが、江戸末期では輸入書籍、はては鉄砲を取り扱う資格まで与えられた模様です。

 長崎屋の主人と言えば、長崎屋源右衛門の名前が知られていますが、これはある一人の人間の名前ではなく、ある時期から代々襲名して十一代を数えたそうです。

 江戸の花とまで謳われた火事ですが、過密都市に成長した江戸の日本橋にあって、長崎屋も火事の類焼に悩まされていました。そのために長崎屋源右衛門はたびたび転宅願いを出していましたが、宛先が大・小オランダ通詞であることは、通詞の仕事は通訳だけでない意味で、注目に値します。
 また、転宅の申し出はなかなか許可されず、その間の度重なる類焼から、毎度幕府からの拝借金とオランダ商館からの助成金によって再建にこぎ着けていました。オランダ商館から助成金は、当時高価な白砂糖でまかなわれていたのは意外で、おもしろいです。

 キリスト教徒のオランダ人は江戸の町を自由に出歩けないが、蘭癖大名や江戸の蘭学者や蘭方医たちはめいめい許可を得て長崎屋を訪れていました。政治交流の場、医学教室、もしくは国際言語研究所など、オランダ人が泊まっていた長崎屋2階は一時的に多目的サロンの様相を呈しました。
 長崎屋への訪問者には、隠居した中津侯や、平賀源内、青木昆陽、杉田玄白、前野良沢、大槻玄沢、桂川甫賢、鷹見泉石と言った名前が見えます。

 シーボルトによって恐らく日本に初めて持ち込まれた小型ピアノの音色を、中津侯は特に気に入り、またオランダの歌を聴き、ダンスも見たそうです。侯は西洋のダンスと日本の舞いを比較して、「オランダ人は実際に足でおどるが、日本人は手でおどる」と言ったそうです。
[読書・本]

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