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archive.org で古い本を適当に見ていたら、1912年の「Moving Picture World」誌で、ベンジャミン・ブロツキー氏に関する記事を見つけました。(
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ブロツキー氏は「亞細亞影戲公司」の創設者です。(
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「Moving Picture World」誌の記事によると、サンフランシスコ大地震後の混乱後、ブロツキー氏が古いEdison Universal製の投影機と40〜50巻のジャンクフィルムを持って、最初に辿りついた中国の都市は天津でした。
当時の中国では映画がまだ大衆に知られていなく、放映ショーを開いても、最初は人々が畏れてあまり集まってこなかったそうです。また、上映 していた米国製西部劇の上映中、銀幕上のカウボーイが手前にピストルを向けるところで観客が怒り、挙げ句の果て劇場に火がつけられ、大きな損害を蒙ったそうです。
上記「中文百科在線」では、1913年、鄭正秋と張石川がメガホンを取った「難夫難妻」が中國人が撮った最初の短編映画だと書かれていますが、どうもその前の1909年、上海亞細亞影戲公司は香港で、梁少波という人が監督による「〓燒鴨」というショートムービーがすでに撮影されたそうです。
また、ブロツキー氏が中国各地で撮影した最初のドキュメンタリー「A TRIP THROUGH CHINA(中国)」が台湾の国家電影資料館にビデオコピーの形で現存していることがわかりました。中国各地の風景や市井の人々をが映像として残り、大変歴史的価値が高いものです。(
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「Moving Picture World」誌の記事の後になりますが、1913年、ブロツキー氏が来日しました。1913年、横浜山下町でヴァライエティー・フィルム・エクスチェンジ社を創設し、シネマトグラフ・フィルム配給と映像機器販売を行う会社として登録されていました。
のち、氏は東洋フィルム会社を設立し、アメリカ放映時でも好評を博した「A TRIP THROUGH CHINA」に倣って、日本政府の委託を受け、ドキュメント映画「BEAUTIFUL JAPAN」の製作に取りかかりました。
最終的に未完成でしたが、撮影されたフィルムが140分ぶん現存しているそうです。
実際の映像を私はまだ見たことがないですが、間違いなく、これも歴史的価値が高いものなのでしょう。
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