2014-09-13
しかし、ブランドフォードは種牡馬になってから、子供たちが大活躍して、歴史的名種牡馬と呼ばれるようになりました。
そのうちの一頭が、1935年の英国クラシック三冠馬になったバーラム(Bahram)です。
バーラムは、生涯9戦9勝の歴史的名馬ですが、デビュー前は病弱であって調教も怠けていたので、同じオーナー(アガ・カーン殿下)で同じ厩舎にいた僚馬セフト(Theft)のほうが、むしろ当初の評価がだいぶ高かったようです。
しかし、バーラムはレースになるとまじめに走り、2歳時のナショナル・ブリダーズ・プロデュースSも、クラシック第一弾の2000ギニーも、セフトはバーラムの2着に負けました。
ダービーで、セフトは、前に馬がいたから一旦後ろに下げてから外に持ち出したため、騎乗したハリー・ラグ騎手は同じ馬主のバーラムに勝ちを譲ったのではないかと疑われ、審判から警告処分されたそうです。確かにセフトの後ろにいたバーラムは、そのままの位置でタテナムコーナーを回り、馬群を割り込んで快勝したから、少なくとも結果的にバーラムに乗っていたフレッド・フォックス騎手のほうが、優れた騎乗をしたと言えます。
セフトは競走馬引退後、日本に輸入され、官営の日高種畜場に繋養され、1947年から1951年まで、5年連続でリーディングサイアーとなったほどの大成功を収めました。
しかし、自身の競走成績同様、どちらかというと短距離レースのほうに活躍馬が多く、ダービーを勝つ馬はなかなか出てきませんでした。
ようやく、ミノルの英国ダービー制覇から42年後、1951年の日本ダービーを勝ったのが、セフト産駒による初のダービー馬、トキノミノルです。
「初出走以来10戦10勝、目指すダービーに勝って忽然と死んでいったが、あれはダービーをとるために生まれてきた幻の馬だ」とあるのは、吉屋信子さんが、トキノミノル急死後、毎日新聞に寄せた文章の一部です。
トキノミノルは当初パーフエクトという馬名で出走していました。デビュー戦の800メートルのレースに2着馬に8馬身差でレコード勝ちした後、永田雅一オーナーがトキノミノルに改名しました。
「トキノ」は、永田氏が特に走る持ち馬に付ける冠名であり、デビュー前のトキノミノルはさほど期待されていなかったかも知れません。
永田雅一は当時大映の社長であり、プロ野球のオーナーでもあり、トキノミノルがダービーを勝った3ヶ月後、「羅生門」ががヴェネツィア国際映画祭グランプリを受賞したこともあり、まさに人生の絶頂期でした。
ダービーのレース後、馬場に出て記念写真を撮ろうとした永田氏とトキノミノル目がけて、観客が殺到し、埒が破損しました。オーナー、馬、騎手は人波のなかに巻き込まれ、口取り撮影は馬場内になだれ込んだ観客に囲まれた中で行われた史上初のことです。秋にはセントライト以来史上2頭目のクラシック三冠が確実視され、永田氏は記者たちに対し、三冠を達成できた場合、史上初のアメリカ遠征を行うことを発表しました。
しかし、レース終わって五日目ぐらいから、どうもドキノミノルは元気がなくなり、16日午後になって目が赤くなっているのが見つかり、結膜炎が疑われて治療が行われたそうです。
6月17日、松葉博士がやって来て精密検査したところ、破傷風であることが確定されました。
そしてついに6月20日に敗血症を起こし、永田オーナーなど関係者に看取られながら短い生涯を閉じました。
名馬の急死は、社会的にも大ニュースとして扱われ、読売新聞の21日の朝刊で社会面のトップで扱い、競馬が一般紙に登場することの少ない時代で珍しい扱いでした。
のち、トキノミノルは銅像が作られ、幾度のを改修工事を経ている東京競馬場にいまも設置されています。
競馬ファンの間では待ち合わせ場所としてすっかり定着されています。
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