小林信子の日記(
[URL])では、明治31年12月31日も「午前5時半起き、八時食事、旦那様ご出勤」と記され、当時のサラリーマンは大晦日も働いていたようです。
正月は五日まで休み、1月5日では20名近い来客を招き、小林家で盛大な「かるた会」が開かれました。
夕食に、「支那料理十二人前、すし十二人前、酒五合、ビール大二本、小一本出す」。また、「かるた数番の後、お持たせの物及び有り合せの物」で福引きも行ったようです。
この頃、正月ではかるた会がさかんに行われていました。
「未だ宵ながら松立てる門は」の名調子で書き出された尾崎紅葉の「金色夜叉」も、ランプとロウソクでまぶしい大広間でのカルタ会の場面から始まっています。
三十人余の若い男女のなかで、ひときわ目立つ美女が小説のヒロインの宮であり、その宮をみそめたのが、資産家の息子の富山唯継です。富山は金縁のメガネをかけ、指には大きなダイヤモンドの指輪をはめていました。「みて、あのダイヤモンド!」「あらまあ」「三百円」「ええ三百円もの?」
この時代はまだ「銭」単位の経済でありました。
蕎麦屋へいけば、もりもかけも二銭です。菓子屋へいけば、あんころもぼた餅も二銭です。信子の夫・小林安之助はサラリーマンにしては高給取りですが、月給は五十円から六十円でした。
正月、女中のはつへのお年玉は「旦那様より三十銭、母上、信子より十銭ずつ、別に母上より前さし一本。」であり、もうひとりの若い女中とりへは「旦那様より二十銭、母上よりかんざし、根がけ類一袋、信子より銀杏返し前さし一本」が与えられました。
日清戦争が終わって、つかの間の平和に政府は貿易を推進し、日本の国内産業は急成長しました。その結果、インフレが進んだが、明治35年に発行された「金色夜叉続編」の定価は、それでもまだ五十銭であったようです。
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