サン・ガブリエル号からサン・フアン・バウティスタ号
2010-12-25


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 インド航路を発見?したヴァスコ・ダ・ガマが、マラリアの感染で亡くなったのは486年前、西暦1524年のクリスマスでした。

 写真の切手は、1497年のヴァスコ・ダ・ガマの船とありますが、そうだとすれば、横帆式船のサン・ガブリエル(Sao Gabriel)号、ということになります。
 ネットで調べると、このサン・ガブリエル号と姉妹船のサン・ラファエル号はどちらも200トンであると書かれているところもあれば、サン・ガブリエル号は 250トン、サン・ラファエル号は100トンだと書かれているところや、実は120トンしかないだとするところもあり、記録がないためか、本当にまちまちです。
 Wikipediaでは最近の研究内容から、サン・ガブリエル号は全長25.7mの178トンで、サン・ラファエル号もほぼ同型だとしています。( [URL] )

 
 コロンブスの新大陸到達に続き、インド航路の発見が大航海時代の到来を加速させ、ヨーロッパ人はその16世紀前半に、海路からも日本来ていました。

  「ガリヴァー旅行記」の主人公レミュール・ガリヴァーも、第三回の航海では、空の浮島・ラピュタ島、変な科学者が集うバルニバルビ島、魔術師のいるグラブダブドリ島、不死人間と話したラグナグ島を経て、外国人に十字架踏みの儀式を強要する不思議な国・日本にやって来ました。(最後はオランダ人と偽って、長崎から出港して帰国しました)
 作者のジョナサン・スウィフトが、ガリヴァーのモデルとして参考したとされているのが、後に三浦按針とも呼ばれる、1600年にリーフデ号に乗って日本に漂着したイギリス人のウイリアム・アダムスだそうです。

 インドへの新航路を発見すべく、ジャック・マフー指揮下のロッテルダム艦隊の4隻の僚船ホープ号(旗艦)、ヘローフ号、トラウ号、フライデ・ボートスハップ号とともに、約300トンのリーフデ号が出航したのはは1598年の6月でした。リーフデ号の船名の「Liefde」はオランダ語で「愛」を意味する単語ですが、元々はルネサンス期の人文主義者として知られるエラスムスの名を冠した「エラスムス号」だった話も聞きますが、いきさつ等詳細は不明です。旗艦・ホープ(希望)号など、ほかの船に名前を合わせただけかも知れません。
 しかし名前通り希望に輝くものとは程遠く、ポルトガルに拿捕されたり、太平洋で沈没したり、さらに伝染病や土着民の襲撃など、ロッテルダム艦隊の航海は悲惨なものでした。


 しかし、かろうじて豊後の臼杵に漂着したリーフデ号の生存者のなか、ウイリアム・アダムスは徳川家康の信頼を得て、また船大工としての経験を買われて、西洋式帆船の建造を要請されるに至りました。

 ウイリアム・アダムスの監督の下、伊豆半島の伊東で日本では初めての造船ドックを設けて、80トンの帆船を建造したのが1604年、さらに1607年には120トンの船舶も完成させました。
 1610年、メキシコの使節として来日していたドン・ロドリゴは、自分たちの船が台風で破損して帰国ができなくなったとき、家康が貸し出したのがその帆船でした。船を提供する見返りとして、京都の豪商田中勝介とほか22名の日本人の船乗りを乗船させることを要求しましたが、22人は航海技術を習得させるのが目的で、田中勝介はメキシコとの貿易を振興する可能性がないかリサーチさせたようです。
 黒澤脩によると、この事件は、家康による「大御所派墨使節」として、キチンと歴史に刻むべき使節派遣だとしています(「歴史読本」2010年11月)。
 ちなみに、その船はサン・ブエナ・ベントゥーラ号と名付けられ、英語版Wikipediaにも載っています([URL])。8月に日本を離れたサン・ブエナ・ベントゥーラ号は、約三ヶ月後にメキシコ西海岸のアカプルコに到着し、恐らく日本で建造された船では、初めて太平洋を横断した船となりました。


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