神の踊り子ニジンスキー
2010-10-09


タマラ・カルサーヴィナは、20世紀の初頭にあって、あのアンナ・パヴロワと人気を二分していた、ロシア帝室マリインスキー劇場のプリマバレリーナです。
 ペテルブルグの舞踊学校にいた頃、男子クラスを覗いたら、ひとりの少年が同級生たちの頭の上まで跳躍して、空中に宙づりになっているように見えたのに驚いた、と後に語りましたが、カルサーヴィナが見て仰天したのは、ほかでもなく、後に神の踊り子と呼ばれたワスラフ・ニジンスキーその人でした。

 40年前、英国3歳クラシック三冠を無敗で制した名馬ニジンスキーの名前は、ワスラフ・ニジンスキーに因んで付けたものだと先日にも書きました([URL])が、ニジンスキーの父は20世紀最も成功した種牡馬ノーザンダンサー(Northern Dancer)で、父の馬名にインスパイアされたのでしょう。


 セルゲイ・ディアギレフ率いるバレエ・リュスが、ロシアからロンドンを経てパリに初めて現れたのは1909年の5月だったそうです。以降、彼らはほぼパリにとどまり、戦時中から1929年まで、すなわちディアギレフが亡くなるまで、毎年のように公演を打って、その名を西欧世界に轟かせました。
 レオン・パスクトの衣装と舞台、ジャン・コクトーらの台詞、イゴーリ・ストラヴィンスキーやクロード・ドビュッシーの音楽も、それぞれパリっ子を虜にしましたが、「パリ・一九二〇年 シュルレアリスムからアール・デコまで」(渡辺淳)によれば、「この盛名が何よりも、ダンサーたち、というよりダンスそのものに基づくものであり、ことのほか、ディアギレフがまず見出して愛し、育てた若い男性舞踊手、ワスラフ・ニジンスキーが、ダンスそのものをみずみずしく具現化していたからだというのは本当だろう。」
 旧来のバレエ団は女性のバレリーナを主役にするしきたりがありましたが、バレエ・リュスではむしろ男が主役です。
 その役を担ったニジンスキーは、高い跳躍と中性的な動き、魅力に特徴があるようです。「薔薇の精」のグラン・ジュテ役などは、フォーキンに言わせれば、ニジンスキーは高い跳躍をしたわけではなく、空気のように軽く詩的な舞踊を演じたそうです。 また、「ニジンスキーは半分人間半分猫科の動物のような柔らかくしかも長い跳躍をした。」とも語っていました。

 「天使よ奇跡の子よ、完璧を体現するものよ、神の踊り子ニジンスキー」といった伝説的な扱いもありましたが、調べてみれば、ワスラフ・ニジンスキーが活躍した期間はそう長いものではありませんでした。
 1913年の南アメリカ公演へ向かう船上で、ロモラ・ド・プルスカと電撃結婚したら、ディアギレフが烈火の如く怒り、ニジンスキーを解雇しました。1916年には一度ディアギレフに呼び戻されて北米公演に参加しましたが、その頃になるとニジンスキーに統合失調症の兆候が現れ始め、仲間たちを恐れて部屋に閉じこもるようになったようです。
 ニジンスキーの後半生は、精神病院を盥回しにされ、ついにバレエの世界に戻ることはなく、最後は1950年に亡くなりました。


 2006年トリノ・オリンピックのフィギュアスケート金メダリスト(バンクーバは銀メダル)のエフゲニー・プルシェンコが、2003〜2004年のシーズンに踊った曲が「tribute to Nijinsky」(ニジンスキーに捧げて)というタイトルでした。最も成功したプログラムだと言われながら、なぜかプルシェンコ本人が、心身ともに最も苦痛だと語った演目でもあります。
 2003年のアイスショーの映像がYouTubeに上がっていますが、後半は天才ニジンスキーの晩年の悲哀を唄っているように聞こえました([URL])。それがプルシェンコ自身にも苦痛をもたらしたのでしょうか?

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